美味しい近江牛を生み出すのは、琵琶湖周辺の自然が溢れる風土。
実際に歩いてみることで、この土地の豊かさを知ることができます。
近江牛のふるさとの地を巡るシリーズ、今回のテーマは「水源」です。
琵琶湖にそそぐ水の源
日野川の源流を求めて
滋賀県のほぼ真ん中に位置する琵琶湖には、四方の県境を取り巻く山々からの流れを源流とする117本の一級河川を含む、約450本もの河川が全方位から注ぎこむ。その貯水量は実に275億トン。
そのような大量の水はどこから来て、どこをどのように琵琶湖まで流れていくのか。
鈴鹿山脈から琵琶湖へ流れ込む日野川の流れを追う。
琵琶湖の東側、綿向山の裾野に開けた滋賀県日野町。ここから鈴鹿山脈沿いに三重県伊賀市の辺りまでは「古琵琶湖層群」が分布している。
(かつて琵琶湖があったところを「古琵琶湖層群」という)
約400万年前に琵琶湖の元になった大山田湖という小さな湖が三重県伊賀市辺りにあり、そこから長い年月をかけて移動を繰り返し、約40万年前に現在の滋賀県の中央に落ち着いた。
綿向山の湧き水
市街地を見下ろすように東に見えるのが綿向山。一級河川の日野川の源流。北から岐阜県、滋賀県、三重県にまたがる鈴鹿山系の一峰であり、日本列島の北と南、西と東の気候が交わる辺りにあり、ブナ林や希少な植物をはじめ、豊かな植生や野生動物が多く見られる山。地質学的に貴重な現象も見られ『綿向山麓の接触変質地帯』として国の天然記念物にも指定されている。
晴れた日は遠くに琵琶湖、対岸の比良山まで望める。山のあちこちから水が湧出していて、その中でも一番山頂近くにあるのが金明水と呼ばれる湧き水。登山口から山頂までの間の唯一の水場として多くの登山客の喉を潤してきた。
山肌を流れて麓で西明寺川となり、やがてもう一つの水源の熊野の滝から流れ出す日野川へ合流し、市街を沿うように流れていく。
日野川の源流 熊野の滝
金明水から山の反対側にあるのが熊野の滝。滋賀県日野町熊野の熊野神社の近くにある。そこは綿向山を中心に活動していた修験道者たちの拠点となった神社であり、創祀は鳥羽天皇の御宇とのことなので、約900年の古い歴史に包まれている。
熊野の滝はそのご神体として大切にされてきた滝であり、琵琶湖に流れ込む一級河川、日野川の源流となっている。平成25年の豪雨で流されてきた岩石で滝の姿は変わってしまったが、熊野三権現を勧請して祀られたという神社の由来そのままに、かつては那智の滝を彷彿とさせる真っすぐ落ちる直瀑だったとのこと。
登山口の熊野神社で出会った年配の男性は、『それは美しかったんやけどなぁ』と残念そうに、『それでも迫力あるぞぉ~』と笑顔で語ってくれた。
道は所々崩落しているが、よく踏み馴らされており歩きやすい。が、途中には丸太で出来た橋や堰の上を渡らなければならないような難所もあり、注意深くゆっくり進むと絶えず水が流れる音が川筋から上がってくる。道中は目印のようにお地蔵さまが祀られていて、それらを道しるべに先へ行くと、滝の手前に熊野不動尊のお社が見える。
水音の大きい方へ近付くと周囲を大きな岩の壁に囲まれたところに出た。水辺まで降りてみると、途切れることなく豊富な水が流れ落ちる滝が姿を現した。かつては真っすぐに落差10mを落ちる直瀑だったが、大雨での落石によって段瀑になっている。さぞかし大きな力で運ばれてきたであろう巨大な岩がダイナミックな景観を作り出し、その間を溢れんばかりの青白き激流は、やがて静かな谷間へと流れていく。
水はここから谷筋を下り、日野町の旧市街の南東にある、音羽城跡の辺りで同じく綿向山から湧き出たもう一つの源流と合流することになる。
栄える日野町 近江商人の町
日野町は織田信長、豊臣秀吉に仕えた戦国武将、蒲生氏郷を生んだ地であり近江商人の輩出地としても有名である。
約1万年前の石器時代の頃からこの辺りに人が住み始めた痕跡が残っているという。自然の恵みを受けたこの地に氏郷の曽祖父である貞秀が町を開き、信長の死後、秀吉に重用された氏郷が松坂へ国替えになるまで城下町として発展した。氏郷が繁栄の礎を築いた日野城下からは近江商人を多く輩出し、彼らは千利休も愛用したと伝わる日野椀や、薬などを携え、国替えを機に全国へ商いを広めていった。近江日野商人の存在が、経済、文化、信仰を支え、隆盛を極め、日野町は古来からの文化が色濃く残る町として栄えてきた。
河岸段丘の崖上のヘリに沿って、歴史ある街並みが広がる日野町。町のあちこちに湧き水があり、水はこの地で暮らす人々の生活や文化に恩恵をもたらしてきた。
若草清水
滋賀県の『湖国百選 水編』に選定されている湧き水。茶人としても知られ、千利休の高弟である利休七哲にも名を連ねる蒲生氏郷がお茶を点てるのに用いたといわれている。蒲生氏の菩提寺である信楽院の裏手にある。
滝の宮
岸段丘を降りたところの滝の宮神社にあり、段丘から染み出すように湧き出す清水。
こちらも後世に残すべき水遺産として、『湖国百選 水編』に選定されている。
母なる綿向山と共に歩んだ日野町
『日野観光ボランティアガイド協会わたむき』の河副秀夫会長の考察では、北緯35度線上で結ばれた遠く出雲から東に向かって異動してきた人々が綿向山に到達して、その神々しさに魅了され、豊かな水脈があるこの地に定住したのではないかという。なるほど日野の町を見守るような、ふくよかな母親のような姿は、全てを委ねたくなる。とりわけ日野町民にとっては唯一無二の存在、こころの拠り所であるとのこと。
綿向山を奥宮とする馬見岡綿向神社の縁起には、神武天皇の御代に綿向山に出雲国開拓の祖神を迎え祀欽明天皇の頃にその頂上に祠を建てたのが始まりと伝わっている。
毎年5月に行われる日野祭りは850年以上の歴史を持つ、日野町で一番のお祭り。850年前というと平安時代。新緑の緑に映える豪華絢爛な曳山と祭囃子。
豊かな水源地である綿向山は、古来よりご神体でもあり、自然と人の文化がともにある姿を教えてくれた。
川の流れは続く。
水源をたどる旅の中で感じたこと
日野の領主であった蒲生家の会話の中で
織田信長が岐阜から(敵から)逃れる手伝いを蒲生氏郷の父が蒲生家の領地を通して逃がしたのではないか?(河副さん見解)という話を聞いて、日野は安全で栄えていた(日野商人がロウソクや日野椀などを売っていた)から、信長に見せたいほど自慢の町だったのだろうと思った。
今現在と昔の日野の町の建物の建て方はほとんど変わっておらず、斜めに建てられているところが多い。敵が攻めてきた時に入りにくくするための武者返しという建て方らしい。昔の日野の町を想像しながら日野を散策してみるのも面白く学べるのかもしれない。
取材日2024/04/09(火)の気候から
強風で咲いたばかりの花々が道路に散っていたのを見て少し河副さんが話していた内容を思い出した。氏郷が読んだ句と、この日を重ねて、気候がまさにそうだとこの身をもって感じた。
『かぎりあれば吹ねど花は散るものを心みじかの春の山風』
(風など吹かなくても、花の一生には限りがあるので、いつかは散ってしまうのです。それを春の山風は何故これほどに短期に花を散らしてしまうのですか。)
きっと、氏郷は心の奥底で戦のない平和で自由な時代を願って日々を過ごしていた、心優しく皆から愛された武将だったのだろう。まるで氏郷自身の短い生涯のようだと思った。
河副さんの豆知識で
氏郷の好きな柄模様は『松』と『鶴』だったと言うことを聞いた。その理由が何とも単純で面白い内容だった。
松が好きな理由は馬見岡綿向神社の参道周辺にあった若松の森を思って黒川という地名を若松に改め、三重に移った時にもまた、地名を松阪にしたというものだった。鶴が好きな理由は幼名に鶴という字が入っていたからだという。(鶴千代だった)
ユーモアがある面白い人だったのかもしれないと思うとますます興味が湧いてきた。
綿向山の会話の中で
綿向山は鹿による食害が多いのだと聞いた。人間による対策(?)も取られている。紙幣などを作り出すのに用いられた『ミツマタ』という植物を山に植えたことで多少食害は減った。その理由は鹿はミツマタを食べないからだ。河副さん曰く、鹿はミツマタを食べられる植物だとまだ学習していないのではないか?とのことだった。
人間も鹿や猪などの生物たちに畑を荒らされたり木々を枯らされたりと、山に住んでいる人々は生活してゆくのに苦労をしているが、お互いに生きてゆくのに必要なことで、それが共存なのだなと感じた。
これからも、近江牛のふるさとをめぐる旅は続く。
次回もお楽しみに。